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         日本うどん学会・会長 佃 昌道 氏
日本の宝物「うどん」を世界に発信していく
インタビューアー 本誌編集長 奥山 忠政
(前略)
奥山 「うどん」を中心におくというのはたいへんシンボリックなことと思います。青木正児先生の『饂飩の歴史』に、「饂飩」はもともと「■飩」と言っていたとあります。「混沌」に通じる命名で、つまり形の定まらない、どんな形にもなりうるような塊を意味しています。会長がおっしゃるように、「うどん」というのが基本にあって、それがいろいろ変形し、派生していって新しい食べ物ができていく。そば(切り)だって切り麺にならって誕生したものだし、ビーフンも同様です。
大きな対象にせよ小さなテーマにせよ、大いに発展していっていいけれど、何か中心というか座標軸がないと、まとまりのないものになってしまう・・・。
 そういうことです。いろんなものを混然とさせながら、時として整理する。それをどう整理していくか、これはこれで学会のおもしろいところだと思うんですよね。まずは挑戦していく。
あとは実践だと思います。何か実践することによって新しい発見が生まれる。
奥山 その実践ですけれども、学会には研究者と企業者がいますよね。この関係をどうお考えですか?
 もう一つ、消費者がいます。
奥山 あ、消費者がいます。
 うどん好きの消費者にもっと参加してもらう。その人たちにサービスしなければならないからいろいろなイベントを企画する。その中から企業者や研究者の開発・研究テーマが出てくる。そういった意味で、「三位一体」は学会の大きなメリットの一つではないかと考えます。ですから京都大会での「五島うどんと讃岐うどんの食べくらべ」は、消費者に興味をもっていただけるたいへんいい機会だと思っています。
奥山京都大会のことになりましたが、シンポジウムのテーマ「UDON世界を翔けるか」について、進行の見取り図をどうお考えですか?

「ジャパン」といえば「うどん」のことに
 うどんの特性がどの世界にも通じるかをまず見ること、それからどれだけうどんのニーズがあるかを確かめること、もう一つは、今の麺文化地図を描くことじゃないですか。  その中から、研究者や企業者の議論が交わされていくと思いますよ。
奥山 台湾から樺島氏が参加しますし、聞くところによりますと、ロンドンやパリに本格派の讃岐うどんの店が開業しているようですし、ソウルには『めりけんや』さんが出店しています。それぞれ課題を抱えながら奮闘しているわけですが、これから成功を確実にしていくには、ラーメンも含めたこれまでの経験に学ばなければならないと思うんです。
 ラーメンもですけど、寿司もあります。
奥山 ところで五島うどんについてです。先般丸亀で讃岐の人たちに試食していただき感想をお聞きしたんですが、予想以上にみなさん好意的でして、「讃岐うどんとはちがった上品な感じがする」「讃岐うどんとは次元のちがう食べ物であり、分家はしたがもともと同じ仲間といった感じで、共存共栄していけると思う」といった発言がありました。
 五島の人たちは讃岐・稲庭に次ぐ「日本三大うどん」に食い込むべく一生懸命で、うどん学会に入会し、京都大会の「食べくらべ」に参加するのもその一環でしょう。これについて、会長としていかがお考えですか?
うどんにも生麺・乾麺、切り麺・手延べ麺というように、いろいろな類型があるでしょう。まったく作り方がちがいますから食感がちがって当然で、五島は「新感覚ナンバーワンの五島うどん」といった訴え方で売っていけると思います。問題はむしろ、いかに製造原価を下げるかにあるんじゃないかと想像します。まずブランドで売り出すのはいいとして、売れ出したときいかに安価に大量生産していけるかといったことです。これはいろいろ聞いてみなければならない課題ですけど、少なくとも学会の調査・研究テーマにはなりうる。
ともかくご縁ができたわけですから、日本の麺文化のために手を携えていかなければならない。大会を日本の古都・京都でするのは意味のあることで、「ジャパン(japan)」といったら、器では漆器を意味するけれど、食べ物では「うどん」のことだと言われるようになりたい、というのがひとつの夢です。
奥山 いいお話ですね。讃岐にせよ五島にせよ共通して言えるのは、「飩」から出た小麦粉食品が日本にやってきて、それぞれのクニやムラで工夫と努力が重ねられた結果、麺そのものの繊細な美味しさを実現したということですね。

癒やしとしての「うどん」
日本人の細やかな心づかいと、もう一つは質素な生活の中でいかにモノを大切にして食べ物をつくってきたかという工夫と感謝の気持ちがうどんには込められている。だからぼくは今のうどんは「癒やしの食べ物」だと思っています。素朴な食べ物だけど、食べるとホッとさせられます。
奥山 なるほど「癒やし」ですか。ずっとさかのぼっていくと、どこかで空海とつながってくるかな・・・・。要するにスピリチュアルの世界のことなんですけれど、逆に、体感による癒やしも考えられます。京都大学の伏木亨教授の著書に引用されているんですが、口蓋の奥にセロトニン産生細胞というのがあって、物理的な刺激を化学的な信号に変えて脳細胞に快感を催させているそうです。これが「ノド越しがたまらない」と感じさせているらしいのです。おもしろいのは、人体でこの細胞がもっとも密に存在しているのが男性の生殖細胞だそうです。こうなりますと、うどんは快楽物質だということになるわけで、癒やしそのものです。「癒やし」といえば、福岡そばの会がボランティア活動で心身障害者施設でそば打ちをしているのですが、そばを打たせているうちに重度のうつ病患者がだんだん心を開きコミュニケーションを取り始めたという話を聞いて感銘を受けました。
武林 香川県で、うどんとパンでやっているところがありますよ。
 食事をつくることによるセラピーやリハビリはもともとあるんです。とくに、麺は手先をよく使うのがいいらしいですよ。
奥山 京都大会ではうどん生地を会場に置いて来場者に靴を脱いで踏んでもらうことを提案しています。あの独特の感触にはある種の癒やし効果があるように思います。
 コモをかぶせて裸足で踏むとひんやりして気持ちがいい。
奥山 だいたい都会人には体感体験が欠けていますから、いい癒やしになるのではないでしょうか。足の裏にセロトニン産生細胞があることが発見されたりして・・。(笑い)
まあ、うどんというのはいろんな切り口がありますから。
奥山 うどんの食べ方の国際比較という切り口はどうでしょう。「すする」という食べ方は、いろんな人に聞くんですけど、やはり日本人にしかできないらしい。そもそも「すする」に当たる外国語がありません。あれは、麺とスープと空気を一緒に吸い込んで、途中で食道と気管に仕分けしているワケでして、吸い込むのはともかく、仕分けるにはノドの弁の構造がそうなっていなければならない。長い習慣の中でそう変形したのではないか。
 日本人の体がうどんに向いていると・・。
奥山 そうそう。そうなりますと「音」も関係してきます。音・香りを含めた味覚感覚です。「音を観る」「香を聞く」というスピリチュアルの世界にまた戻りますけど。

アカデミズムについて
 そこまでいくかどうかは別として、少なくとも「うどん」を中心に考えていくとおもしろいことになるだろうと思います。
切り口の一つに「風土」というのがありますね。もう一つは「歴史」です。この二つを追っていくとたぶん「うどん系統図」ができると思う。そうすることによって「日本海系うどん」とか「太平洋系うどん」とか「瀬戸内海系うどん」とかに分類でき、そこから「新しいうどん」の姿が見えてくるのではないか。こうして「ご当地うどん」がもっとにぎやかになれば、うどん文化はずっと底上げされていく。消費量はもちろんです。讃岐も含めて、ご当地どうし行ったり来たりするうちにうどん文化が進化していくんだろうな、と思っています。
こんなこと言ったら讃岐の人に怒られるかもしれないけど、「讃岐うどん唯我独尊主義」は決していいことではない。どこのうどんも美味しいね、でも讃岐うどんにはこういう特色があるのよ、そういうことにならないといけない。
奥山 東京で食べるうどんは、だいたい醤油がちがいますから、ちょっとからい感じの独特の味がします。なぜそうなのかを考えるのがまさに「風土論」の役割です。
 そうそう。美味い不味いは作り方の問題で、いい職人がいれば美味しいうどんができるハズです。香川県にはいい職人がいるということです。
奥山 「学会なんだからアカデミックでなければならない」といったことにこだわらない。
 ぼくが言いたいのは、必ず整理・分類して方向づけをしなければならない。それが「学識的だ」ということです。それらが最終的にまとめられると学会誌『うどん道』となって役に立つ。うどんについて誰にでも役に立つもの、1+2=3のように普遍的なものであれば、愛好家もプロの方も研究者も読んでもらえる、それが学会誌の使命だろうと思うんです。
とにかく固定化しない。研究というのは固定化すると活力を失う。自由な活動の中から時として生まれる成果物はアカデミックでなければならないけれど、そこに至るまでは、たとえば商品開発のお手伝いをしたり、この前みたいに商標問題に発言したりする。そういう行動がいつでもとれるような立場をちゃんと確保しておかなければならない。
入会の敷居を低くして、いろいろな経験を話す人、聞く人、夜の宴会だけに来る人、営利目的の人、さまざまな人が集まる。その中から研究が生まれ、発表しましょうということになればいい。

(後略)