麺に関わる情報・リポート・論文の専門誌
第6号 製麺機発明者 真崎照郷小伝(奥山忠政)より抜粋
    ついに倒産した。先祖伝来の家屋敷や田畑は人手に渡り、残された家財を換金して食費に当てるありさまとなった。 後年の顕彰記は、発明を成就するまで9万円を費消したと伝えている。今日の貨幣価値では億単位の額となろう。
    このころ全国的にコレラが蔓延し、郡内でも死者が続出した。照郷は火葬場を造り、火葬を引き受けて研究費の足しにした。
    このような中にあって、ひたすら製麺機の発明に全霊を打ち込む照郷を支えたのは、「男子として発明の功を一簀に缺いてはなりませぬ」という母の励ましだった。 「簀」が竹を編んだスノコであることから、「成功にいま一歩のところまで来ているところであきらめては何もならぬ」といった意味であろう。
    火災のあとさすがに途方に暮れたが、母の言葉を想い起こし、「このまま断念してはご先祖さまに相すまぬ。これは死にもまさる苦痛だ」と勇気を奮い立たせた。
    このとき初めて気づいたのは、材料(麺帯)の化学的性状の研究に欠けていたということだった。製麺「機」に熱中するあまり、製麺「法」をなおざりにしていたのだ。
    1880年(明治13年)12月25日から翌年元旦まで、照郷は一室に閉じこもって実験に没頭した。今日目にすることのできる記録の断片から、われわれは驚くべき事実を見出す。 わずか1週間のあいだに、澱粉と麩分(グルテン)の比率を分析し小麦の産地別の組成を明らかにし、原料粉と食塩と温度の関係をきわめたのである。
化学についての基礎知識も、ろくな分析機器もなかったことを想えば、それは奇跡に近い。1883年春、実質的な第1号機が完成した。
    だが、これまでの長い苦難に劣らぬ苦難が待ち受けていた。早々と模倣機が出現したのである。日々の生活費にこと欠く身に、対抗して製作販売する資力はない。ともかく特許権を取得せねばならぬ。特許権さえ取得すればすべて解決すると手を尽くすものの、当局自体が不慣れでまったく要領をえない。そもそも特許法自体、過渡期で不備だらけであった。心身焦がれる日々が続いた。
    見かねた親類や知己は資金を出し合い、母を姉の嫁ぎ先に、妻子を妻の実家に預け、照郷を上京させた。 1885年のことである。特許局に出頭し陳情すると、あとを代願人(弁理士)に託すよう指示された。
    不如意な旅費をやりくりしながら名古屋まで帰り着き、市内のうどん店を観察するうち、ふと「機械うどんの実演販売」を思いついた。機械の宣伝を兼ねて経費を稼ごうというのである。照郷のどこにそんな商才があったのだろう。あるいは神仏の啓示だったのか。
    さっそく故郷に連絡し機械一式を送らせた。海路だろうが、かなりかかったはずである。資金は知人にすがり、姉トキに手伝いに来てもらった。 「湯で出しうどん屋」は朝から人だかりだった。熟練職人でも1日4〜5貫目のうどんしか打てないが、これを使うと優に50貫目はできるという口上があった。 人びとは機械から流れ出るうどんに目をみはり、競って買っていった。だが成功は長くは続かなかった。同業組合が向かいに対抗店を共同で出し、ダンピング販売を始めたからである。(1貫目=3・75・)
    しかし無駄ではなかった。機械製麺がいかに有益かを、市場の真っ只中で証明することができたからである。 朗報が続いた。滞在中に「特許第448号」が下りたのである。公報の日付を見ると「明治21年(1888)3月30日」とあるから、長逗留していたことになる。