麺に関わる情報・リポート・論文の専門誌
「無化調」神話と訣別しよう(奥山  忠政)より抜粋
  (前略)

「無化調」主義は無知の所産
  こうして「ええ格好しい」の競演が始まった。
  第一に、「無化調」を標榜している使い手(ラーメンなどの作り手)についてだが、「化学調味料」についての正しい知識を知らずに唱えているなら単なる「無知」であり、知っていて唱えているなら許しがたい「偽善」である。
  むろん理論的に「無化調」は可能である。1908年以前の料理はすべてそうであった。料理人たちは天然の素材からワザを駆使して「うま味」を引き出していた。そのためには長期間の修業と、現場での長時間の作業を必要とした。今でもいわゆる高級料亭での事情は変わらない。連日の行列店で、にわか仕込みの職人にそのようなことが可能とはとても思えない。
  第二に、「無化調」びいきの食べ手である。「化学調味料」が発酵製品であることを知って拒絶しているのか。何がどういけないと考えているのか。直接「化学調味料」を避けたとしても、醤油・ソースを含むさまざまの嗜好調味料や調理食品や即席食品で使用されている「化学調味料」をどう考えるのか。 ちなみに「化学調味料」の分野別出荷先は、家庭用=4.6%、外食店用=12.3%に対し、加工食品産業用は「83.1%」となっている。
  逆に、「発酵製品かどうか知らないけど、まあいいじゃないか」という“格好つけ”も恐ろしい。難しい理屈は知らなくても、いわゆる「化学調味料」が身近かな発酵食品と基本的に同じであることくらいは常識化してもらいたい。さもないと、無責任情報に乗せられてとんでもない方向に行きかねない。筆者個人は、「無化調」表示の有無に左右されることはまったくなく、むしろ表示店では、作り手の表情を観察して信用できそうな人物かどうかを鑑定して入るかどうかを決めることにしている。
  第三は、メーカーである。ひと言で評するとみんな臆病で痛々しいくらいだ。「コンシューマリズム」におびえている姿がありありと見てとれる。「化学」「化合」などの用語すらご法度である。取材のとき「グルタミン酸とナトリウムはどう化合させているのですか」と問うと、「『化合』ではありません。『中和』です」と言い直させられた。

まずメーカーから啓蒙活動を
  たしかに「化学調味料」は誤解されやすいし、使いたくない気持ちもよくわかる。だからといって呼称を変えれば済むという問題ではない。イメージ戦略を進めながら、本質にかかわる問題にはキチンと向き合って、根気よく啓蒙活動を続けていってもらいたいと思う。「啓蒙」とは、他人の指導がなければ自分の知性を使おうとしない未成年状態の者に勇気を持たせることだそうだ(イマニュエル・カント)。実際問題として、その役割はメーカーに期待するしかない。
  その際、「佳良にして廉価なる調味料を造り出し滋養に富める粗食を美味ならしむること」は「我国民の栄養不良」状態を「矯救」する「一方案なるに想到し、前年中止せる研究を再び開始する決意を為せり」という池田菊苗の言葉(「味の素の発明動機」/味の素八十年史『味をたがやす』平成2年=1990より)を引用していただきたい。「我国民」を「世界の飢えに苦しむ人たち」と置き換えることができる。「文明」というものをよくよく考えるよすがとなろう。

食べ手が変われば作り手も変わる
  要するに「無化調」神話の構図はこうである。
  まず、食べ手に半ば狂信的な反化学(科学)主義者がいて「天然自然だけがいい」と声高に叫び、感覚的に呼応する人々が追随する。次いで、この人たちに迎合して知名度を上げようとする作り手がいる。最後に、両者に気を遣う調味料メーカーがいる。
  結論は、「メーカーの啓蒙活動に応えて食べ手が“化学調味料”についての正しい知識を持つことがポイント」ということになる。食べ手が変われば作り手も変わる。
  スローガンは「無化調神話に訣別を!!」である。これが本来の「コンシューマリズム」というものだ。                                       [完]