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大宰府の空海 〜さぬきうどんの起源についての一推理〜
                                                                  奥山忠政
(前略)
  師走も近い小春日和のある日、空海は大宰府に向かった。那の津から東の官道を10キロほど南下すると左に古代山城のある大野山(四王寺山)が見え、しばらく行くと水城の大土塁に至る。東門をくぐるとやがて左の丘の上に国分寺が見えるが往時の面影はない。
  丘の麓を東にまわると右手(南)に条坊の整った街並みが見えた。長安とは比ぶべくもないが懐かしさがこみ上げてきた。ほどなく、朱雀大路の行き当たるあたりに政庁の大官衙が見えた。百済における白村江海戦敗退(663)のあと唐の襲来に備えて海岸線から後退し、大野山城と水城に守られたこの地に移されたもので、「遠の朝廷」と呼ぶにふさわしいみやびやかな甍が連なっていた。
  帥(長官)は従三位・藤原縄主だった。空海の表敬を受ける立場だが、はた目には対等の者同士の座談に見えた。空海が意識して尊大に振舞ったのではなく、生来の風格と両部密教の正統を継いだという矜持が自然にそうさせたのである。のちに嵯峨天皇と、あたかも友人同士のような交わりをしたことからも想像がつく。
  空海の用件の一つは、上京の遷延を釈明し、いましばらく滞在することの内諾を得ることにあった。大宰府の1年余を、20年の留学を2年で切り上げた「闕期の罪」による謹慎蟄居とする説があるが、それは表向きの理由であって、実際は、桓武天皇の崩御にともなう京の政情不安や、最澄の動きを見極めるところにあった。二義的には、密教理論を整理し日本の風土に合わせて再構築する作業の時間を要したという事情もある。結果的に、この地は「真言宗」の胎動期を用意したことになった。
  もう一つの用件は、観世音寺の経蔵を借りるとともに、自身が仮住まいできるよう計らうことだった。
  観世音寺は、天智天皇がこの地(近くの朝倉)で崩じた母斉明を追善するために創建した由緒深い官寺(746年完成)で天台宗に属したが、この時点でこだわりはなかった。政庁を少し東に行った樟の木立の中に荘重な伽藍があった。
  いずれの用件とも首尾よく目的を達することができたのは、空海のもたらした事蹟がすでに知られていたことによるであろう。

(中略)
  空海は真魚を分身に仕立てることにした。自身は当分故郷に帰れないであろう。もしかすると今生でかなわぬかもしれぬ。ならば真魚を代わりに遣わし、母上への孝養に勤めさせ、報恩事業にかかわらせよう。思えば、多度の地に恵果の青龍寺を摸した伽藍を建立し、亡き父上を供養しようと夢見ていたのではなかったか。分身でも立てなければ実現できるものではない。
  真魚の聡明さは一見してわかった。素直さも意志の強さも直感した。この者に、記憶力を飛躍的に高め、知恵泉の如く湧き出る秘法を授けた上、空海が乗り移ったと暗示をかければ、当人も左様に振舞い、周囲も「空海」と認識するであろう。ことは急ぐ。
  秘法は虚空蔵求聞持法である。
  真魚はまず虚空蔵菩薩の画像を描いてかかげた。
  本番は陀羅尼を100万遍唱え続けることである。「ナウボ アキャシャ キャラバヤ オン アリ キャマリ ボリ ソワカ」。これを3秒で唱えるとして、1分間で20遍、1時間で1200遍、20時間で24000遍である。この調子で100万遍となると、単純計算で42日かかることになる。
  100万遍の陀羅尼読誦が満ちれば、最後に牛蘇加持法が行われ、神薬の牛蘇(牛乳を煮詰めてつくるチーズ状のもの)を食べて完了する。
  真魚は耐えた。耐えて成就した。
  虚空蔵求聞持法を修しただけでは、コンピューターが初期設定されたようなものにすぎない。空海は、思いつくかぎりの知識を真魚に注入しようとした。これも、秘法を用いてファイルごと入力した。  ただし保存データは潜在化しているため、一度ディスプレー上で目視する必要があった。大日経、金剛頂経、理趣経などの密教経典は、空海がひとたび梵音で読誦すると真魚は即座に記憶し、梵字の読み方も、印の結び方も、秘儀の作法も、一通り示すだけでたちどころに会得した。
  講話もあった。「仏法は身の外にあるのではない」と空海は説いたにちがいない。筆授によらず自ら三密を行じることによってのみ宇宙の霊性(スピリチュアリティー)と交感することが可能となり、無限の智慧を得て成仏することができるというのである。
  最後に空海は一大秘法を行った。祭壇を特別に荘厳し、秘密の護摩を焚き、秘密の飲み物を与え、秘密の真言を唱え、真魚に「自分は空海である」と信じこませてしまったのである。
  その真魚に、空海は伽藍建立のこと、『善通寺』と命名すること、各地を巡り新しい仏法を弘めることなどを決意させた。
六  善通寺
  真魚に持たせる経典・仏画・法具が写されていった。多度に帰る日も近い。
  ある日、空海は長安の僧房生活を語った。作務の合間の点心に「剪刀麪」というものを食べていたというのである。  「讃岐では今も大麦をそのまま煮て食しておるのであろう。彼の地は小麦が主で、碾磑なる石臼にて粉にし、水で練りて棒で延ばし、細く切ったものを椹(椎茸)や貝などと醤で煮て食しておった」
  そう言いながら空海は2尺あまりの丸い棒を置いた。
  真魚はこの寺で食べた不思議な食べ物を思い出した。話に聞いたことのある?飩(こんとん)ともちがう。
  「これを持って行け。大唐国でさようなものを食していると伝えよ。食物に美味を感ずるのも妙適清浄に等しく、菩薩の位なることを知らしめよ」
  8月になると真魚は多度に帰っていった。わずか5ヶ月で容貌・挙措とも見違えるような僧形になっていた。もはや「空海」を名乗っても誰も疑わないであろう。讃岐の地に大寺を開き、密教を盛んにして衆生を益することを思うと足取りも軽い。そのあとを、くだんの犬が嬉々として追っていった。
  この年の12月朔日、「空海」によって善通寺の斧始(起工式)が執り行われた。空海は移ったばかりの和泉国・槙尾山寺でこの知らせを聞いたにちがいない。6年後の弘仁4年(813)6月15日に落慶する。
  落慶法要でうどんが振舞われたのはいうまでもない。
(完)